クルマ好き、仕事好き!単身赴任オヤジの雑記blog

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自分の生き方② 福岡〜広島〜大阪

ライフスタイル

こんにちは、K- Insghtです。

前回、私の生い立ちから学生時代、入社で地方転勤までをお伝えしました。

入社4年半で大阪に戻ったところからの経緯です。

大阪に戻って本社勤務

四国の店舗勤務から4年が経過しました定期人事異動では、明確に勤務先が発表されませんでした。

転勤予定の店舗は新店で、その店舗が未だ完成が伸びるという状況でした。

結局、私は定期人事異動として4月発令でしたが、7月に転居。異動先は大阪本社の教育部門。

大阪で一番混んでいる地下鉄御堂筋線。毎日、混んでいる電車で通勤するのも初めてでした。

初めての事務仕事、大阪本社での仕事でストレスはあったと思います。

仕事内容は教育なので、現場のスタッフに集合教育をする仕事です。

車を触ることしかわからない自分が『なんの教育?』と毎日考えていました。

教育するほどの基礎学力も知識も無し。何より教育する側に自分がなることに違和感がありました。

話すのが苦手で工学部機械工学科で勉強したのに、会社に入ってから教育という完全文系の仕事。

人前で話すための努力、約10倍の時間を費やすこと。

これは当時の課長から教えてもらった『努力』です。2時間の講義をする場合は、その準備を20時間するという内容です。又2時間を20名の参加者を集める場合、延べ40時間を自分が拘束することの重さも教えられました。

この時の『話す努力』はスキルとして10年後に自分の武器になっていきます。

27歳で大阪に戻り、大好きな自家用車も新しいアルファロメオに変更。

今でもレアなアルファ75 TSに乗り換えました。

プライベートでは大阪の鳥飼大橋の下で、ウインドサーフィンで遊んでいました。

その後、高松で3年、福岡で約12年の勤務となり、現場のスタッフとお店をよくする仕事です。

本当にやり甲斐と勉強ができた期間です。

色々な企業や小売業がありますが、本社機能がマーケットを観て戦略を練っているならば問題はないと思います。

本社のような場所で働くと『現場より視点が高く』マウントを取りがち。

特に小売業はその傾向が強く出ますが、私の経験では机上より現場こそマーケットと接する大切な情報源。

私は、高松でも福岡でも現場で働くスタッフからたくさんのことを学びました。

東京本社では気づかないマーケティングは、この消費者に近い『現場視点が重要』という事です。

現場の意見を本社に伝える。

非常に大切なことですが、当時は全力でやりました。

周りの同じ営業職の方は『本社には言っても無駄』『指示通りやらないと・・』そんな意見も多かったのも事実です。

私は現場で意見をくれるメンバーを信じて=市場が全てというスタンスで意見をしました。

この時に東京本社で真剣に意見したことは、数年後の仕事に役立つことにこの時は気づいていませんでした。

自分で出した結論は、

世間に情報あり、現場に答えあり』

会社の中だけで考えたり、上司の意見に同意したり…

現場とギャップが生まれる典型的な例になる=駄目という当たり前の結論です。

少し前に教育訓練で『人前で話すスキル』の話をふれましたが、

この時『マーケティングを考えて営業戦略を練り、戦術に説明をする』という仕事。

違う会社の方々人前で話すことが苦手であった私は、人前で離すことが得意と思われるスキルを身につけていました。

自分でも苦手と思っていますが、人前で話すことの責任と10倍の努力。

こんな形で自分を成長させてくれました。

会社で最年少で役職がついた四国転勤時代から、全力で仕事をして来ました。

その間に営業戦略を考える課長という立場ですが、部長にはなれない。

周りからは『あの人は上を見ないので意見ばかりするのでなれない』

そんなことを言われていました。

私自身も上を見る仕事の仕方は自分らしくない。

このまま部長になんかなりたくないとい考えと、会社は自分を受け入れることができないのか?と不貞腐れた時期もありました。

その結論は、やはり『自分が自分が』という自己主張だけではだめということに気づきました。

気づいても本心から教えてくれたのはこのあとで説明します。

この時期、がむしゃらに仕事をしました。

今までどこでもやったことがないような大きな仕事が複数もあり、部長に

代わってその資料をパワーポイントで作ったことを覚えています。

自分で努力をするというスタンスは親から引き継いだ遺伝と思いますが、その努力を見ている

周りの方々に支えられたのもこん時期です。

そんな周りと協調して仕事をすることで、昇進となりました。

会社の中でも自分の思い通りにならないことは、原因は自分にあると切に感じました。

自分が変わらないからその将来が変わらない。愚痴や文句は自分自身の成長にはマイナスしかない。

必然的にけっかはついてくるというのが私の結論です。

福岡に住んだ12年間で学んだこと

新しい車販売事業の責任者の立場では本当に知識も経験もない自動車販売の世界。

全く今までの事業では基本的に安い商品をたくさん売る商売であり、

自動車という個人にとっても大きな買い物であり、スタンスが全く違いました。

それまでもリユースビジネス、ガソリンビジネスなども経験していましたが、

高額の自動車や逆にオートオークションという分野も勉強が必要でした。

そんな中で部下から色々なことを教わり、支えてくれました3年間です。

それまでの主たる事業と新たな事業と経験が増えたこともトータルスキルが上がった期間です。

個人的にもヤフオクで購入はしても出品はしたことがなかったので、オートオークションの勉強のために、

2012年にヤフオク出品をして、画像の見せ方、出品情報の記載の重要性など、

プライベートでもヤフオクだけでなく当時スタートしたばかりのメルカリも経験し、

マーケティングと合わせて、勉強していました。

福岡には家族帯同で転勤していましたが、途中2006年から単身赴任に変更しました。

息子が小学校5年生、娘が幼稚園年長でもあり、今後のことを考えてマイホームを建てて、

私一人が福岡に残る生活としました。

今までも一緒には住んでいましたが、がむしゃらに働いていたこともあり、

長男・長女を育ててくれたのは間違いなく嫁さんでした。

娘を幼稚園に迎えに行った時に泣かれて一緒に帰れなかった記憶もあります。

やはり接する時間は大切と思います。

今では娘とは笑い話として仲良くしています。

福岡では仕事ばかりでしたが、当時オフ会という新しいコミュニティの勉強も始めました。

SNSをスタートさせたのもこの時期で、gooブログとMIXI、ファイスブックもスタートさせました。

自動車関連ということでみんカラも2007年1月からスタート。

兎に角、テレビ、新聞、折り込みチラシではなく、市場にあった情報発信とつながりがマーケティングとして移行していることは肌で感じていました。

そんな中オンラインとは別にオフラインとしてブログで知り合った方々と集まるイベントにも参加。

アルファロメオに乗っていたこともあり、正直最初は『変な人ばっかりかも』という不安。

周りからはオフ会って気持ち悪いって言われるレベルです。

今でこそマーケティングの基本はコミュニティですが、

当時アラフィフの私は勉強のために参加していました。

今でも付き合いのあるメンバーもおりますし、オフ会という友達作りは今では普通になりました。

九州の12年間は単身赴任を始めたり、仕事でも部下や仲間にさせられて、自分が内向的にならずに済みました。

休みはあまり取りませんでしたが、九州は阿蘇や糸島など素晴らしいドライブスポットが多く、

福岡市内は都会で本当に住みやす場所でした。

成長するポイントは素直な振り返り

ここまで入社した23歳から50歳までのことを記載したしました。

福岡で12年を過ごしその後、広島2年、大阪3年のキャリアとなりました。

ここからは実体験で自分のモティベーションを上げ続けた6年間のことを振り返ります。

広島県では主たる事業の担当に戻りました。

転勤直前に自動車がドナドナしたことは別として、車を乗り換えて転勤となりました。

大好きだったアルファロメオ916スパイダー

この時に今のブレラwに乗り換えました。

さて、広島では中国エリアと四国エリアを担当しました。

福岡で営業戦略担当では南は沖縄から東は岡山まで担当でしたので、知らない場所でもなかったのですが、

改めて仕事の中身を見直す機会としました。

ここでも歴代誰も手をつけなかった『重い案件をなんとか自分の在籍期間で』

と考えていました。

業績は2年間未達。

但し、重い課題を2つを解決できてことは自分にとっても良い経験となりました。

九州の課長時代に部長に代わってした仕事に比べると、まだカンタンな方です(笑)

この時も自分の力ではなく、『本社の方々が力を貸してもらえたこと』が進んだ理由です。

九州時代に色々と意見を伝えて仕事をしてきましたが、良い意味で協力してくれる方々が増えていたことも、自分の実力ではなく結果が出たと思います。

ここまでやって来れたのは間違いなく自分のスキルや知識ではないと考えています。

努力を続けることは素質であったり遺伝であったり。

しかし福岡で努力しても報われずに不貞腐れていた時に、あのままだったら自分はダメになっていたと思います。

現場で意見をくれた方々、周りで支えてくれた人、そして新しい事業のことで教えてくれた部下。

結局は自分自身ではなく、心を入れ替えたことで周りに助けられたと思います。

心を入れ替える。簡単に書きましたが本当に自分のターニングポイントと思います。

当時の私は確か45歳くらい。

単身赴任で家庭を守ってくれた嫁さん、オフ会などで色々とコミュニケーションをとってくれた

別府のAさん、熊本 のT さん、久留米のショップSさん。

この時のプライベートの充実も自分をバランスよくしてくれたと思います。

仕事では福岡、四国の現場の皆さんに励まされ、モチベーションを維持できました。

自己主張は大切ですが自己中心になってはいけないと感じ、素直になれた気がします。

現在は東京都内でコロナ禍での生活を過ごしています。

コロナ禍という環境はネガティブにも思えますが、自分自身の将来を考えるいい機会になったと思っています。

人生100年時代ですが、個人的には何歳まで行きたいとかは全くありません。

定年まであと3年(再雇用を入れて8年)ですが、自分のやり甲斐や会社への貢献うや恩返しなど、

その方法についても考えた1年間でした。

自分の座右の銘は『踏まれても強く、雑草のように』

これはどんな状況でも太陽の方向に、常に前向きに一歩一歩進むという意味です。

嫌なことや納得できないことはあります。

雑草に生まれ踏まれているかも知れませんし、薔薇や桜に生まれたかったと羨んでも仕方がないと思います。

常に自分自身を見つめて、素直に太陽を向いていきたいと思います。

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